20年前の夏。
就職して1年半で会社がなくなった。
当時のことは今でも鮮明に覚えている。
一番記憶に残っているのは、倒産した翌日でも、その後の手続きでもない。
倒産した会社の前にあるベンチで、同期と二人でコーヒーを飲んでいたことだ。
行くあてもない。
やることもない。
ただベンチに座って、たわいもない話をしていた。
暑い夏の日だった。
私たちは1週間ほど、まるで出勤するかのようにその場所へ通った。
当時、私は京都で就職し、1年後に新店舗立ち上げメンバーとして金沢へ転勤していた。
仕事は順調だった。
全国に店舗を持つ会社で、同期も30人ほどいたと思う。
1年目の成績も良かった。
基準をクリアした数人だけが昇格できる制度があり、私はその中に入ることができた。
将来に不安なんてなかった。
金沢での生活も楽しかった。
仕事終わりに飲みに行ったり、同僚の家に集まったり、みんなでバーベキューに行ったり。
今思い返しても充実した時間だった。
その日もいつもと同じだった。
19時45分頃だったと思う。
バックヤードから店長が出てきた。
泣いていた。
スタッフ全員を集めた。
そして言った。
「本部から連絡があった」
「弊社は20時をもって倒産します」
正直、その後何を言われたのか覚えていない。
その一言しか記憶に残っていない。
翌日、私はいつも通り出勤した。
店舗はグレーの幕で覆われていた。
入口には張り紙が貼られていた。
破産管財人という聞き慣れない言葉が並んでいた。
昨日まで活気に満ちていた店内は真っ暗だった。
店長もいない。
仲間もいない。
昨日まで当たり前だった景色が、一晩で消えていた。
実はその1か月前、私は結婚したばかりだった。
妻を地元から金沢へ呼び、一緒に暮らし始めたばかりだった。
結婚式には社長も部長も店長も来てくれた。
京都時代の仲間も金沢の仲間も来てくれた。
本当に楽しい結婚式だった。
今でも写真が残っている。
その時の社長の挨拶も覚えている。
「会社の未来を支えてほしい」
そんな言葉をかけてもらった。
その1か月後に会社がなくなるとは誰も思わなかった。
私自身も、もちろん思っていなかった。
倒産後、私は妻の実家へ身を寄せることになった。
片道6時間以上かかる道を、義父母がハイエースで迎えに来てくれた。
今思えば、本当にありがたかった。
私は完全に放心状態だった。
でも妻は特に責めることもなかった。
二人で妻の実家近くを毎日散歩した。
2か月くらい続いたと思う。
本当にお金がなかった。
映画を見に行くお金すらなかった。
ある日、妻の親から生活費として2,000円をもらった。
本来なら生活費に使うべきお金だった。
でも私たちは映画を見に行った笑
今思えば無茶だったと思う。
でも楽しかった。
あの頃は毎日散歩して、毎日話して、毎日笑っていた。
やがて子どもができた。
働かなければいけない。
現実が近づいてきた。
私はハローワークへ通い始めた。
新卒で入社して1年半。
気づけばハローワークにいた。
人生なんて本当に分からない。
車が好きだったこともあり、自動車ディーラーを受けることにした。
何社か面接を受け、10月から働き始めた。
それから20年間、自動車ディーラーとして働くことになる。
最初は本当に苦しかった。
妻は妊娠していた。
収入は私だけだった。
手取りは16万円くらいだったと思う。
税金が引かれた後の金額を見て愕然とした。
妻はよく言っていた。
「手取り20万円あったら幸せなのに」
その20万円すら遠かった。
毎日鶏の胸肉だった笑
当時は、
「また鶏肉?」
なんて言っていた。
でも今思う。
あの給料で家計をやりくりしてくれていた妻は本当にすごかった。
感謝しかない。
もちろん喧嘩もたくさんしたけれど笑
振り返ると、あの夏があったから今がある。
倒産なんて、そう何度も経験することではない。
でも私たちは助けてくれる人たちに恵まれていた。
義父母もいた。
仲間もいた。
妻もいた。
そして何とか乗り越えることができた。
人生は案外どうにかなる。
あの夏、倒産した会社の前のベンチで同期と飲んだコーヒーの景色は今でも忘れない。
そして、妻と二人で毎日散歩した2か月も忘れない。
散歩道で「どっちが先にあそこまで着くか」と競争したこともあった。
あんな時間は、その時しかなかった。
振り返れば全部まとめて良い経験だったと思う。
人生は思い通りにならない。
でも案外どうにかなる。
少なくとも、あの夏を乗り越えた私たちはそうだった。
私は今でもそう思っている。

