家族の写真を撮る理由なんて、人それぞれだと思う。
思い出を残したい。
綺麗な写真を撮ってあげたい。
成長を記録したい。
どれも間違いじゃない。
私も最初はそうだった。
一眼レフを手にした頃、私は夢中で家族を撮っていた。
妻。
娘。
旅行。
運動会。
何気ない休日。
その頃の私は、ただ綺麗に残したい一心だった。
写真が好きというより、家族の笑顔が好きだった。
今振り返ると、写真は道具だった。
家族の幸せを残すための道具。
私にとってカメラは、そのために必要な存在だった。
だから夢中になれた。
だから続けられた。
家族も、私が写真を撮ることを当たり前のように受け入れてくれていた。
「撮って。」
そう言われることも多かった。
友人の家族写真を撮ることもあった。
知り合いのお嬢さんの成人式の前撮りを頼まれたこともある。
結婚式のカメラマンを任せてもらったこともあった。
レタッチまでして、自分なりの最高の一枚を届けた。
その時は、本当に楽しかった。
今こうして考える。
私は本当にカメラが好きだったのだろうか。
もちろん好きだった。
でも、それ以上に好きだったのは、誰かに喜んでもらえることだったのかもしれない。
「ありがとう。」
「綺麗に撮ってくれて嬉しい。」
その言葉が何より嬉しかった。
そして、もう一つ気づいたことがある。
いつ頃からだろう。
私は家族のための写真ではなく、自分が撮りたい写真を撮るようになっていた。
背景を大きく入れたり、人物を小さくしたり。
作品としては満足していた。
でも、妻から言われたことがある。
「私たちはあなたの写真に協力しているだけなの?」
そんな言葉だったと思う。
今になって、その意味が少し分かる気がしている。
写真を撮ることは変わらなかった。
でも、見ていたものは少しずつ変わっていたのかもしれない。
私はファインダーの中の構図を見ることに夢中になって、家族の表情を見る時間が少なくなっていたのかもしれない。
もちろん、それだけが今につながっているとは思わない。
人生は、そんなに単純じゃない。
でも、こうして振り返ると、一つだけ思うことがある。
もっと家族の笑顔を見ながらシャッターを切ればよかった。
そんな気持ちは、今でも少し残っている。
それでも私は、家族の写真を撮り続けてよかったと思っている。
SSDの中には何万枚もの写真が残っている。
旅行の思い出。
運動会。
何気ない休日。
その一枚一枚は、今でも私の宝物だ。
写真は道具だった。
家族の幸せを残すための道具だった。
そして、その時間は間違いなく私にとっても幸せだった。

